江戸川台キリスト教会
ホザナチャペル
イエスキリストを救い主と信じた証
千葉県の中央にある長南町は、小高い山に囲まれた田舎町です。町のあちこちには神社が沢山あり、お寺もありましたしかし キリスト教会は一つもない町でありました。公務員試験を受け、東京で仕事をするようになりました。しかし、私の心は生きる目的は何かと人生について悩んでおりました。その頃の 日記には「神様がいるのなら教えてください」とを書いてありました。
2年後 兄と同居することになりました。東京 駒込の近くに引っ越して2週間ぐらい過ぎた頃でした。駅の近くに「キリスト教 特別 伝道集会」という立て看板が目に留まりました。行くことに迷いましたが、「この時を逃したら、大事なものを失ってしまう」という思いがせまり、坂道を上り、教会に行きました。けれども、そこでは暖かく迎えられて、初めて 聖書のお話を聞くことができました。
そこで語られた聖書のお話しは、「金銀 は私にはない しかし私にあるものをあげよう。ナザレ人 イエスキリストの名によって歩きなさい」というお話でした。お金ではなく、充実した人生を探していた自分の心にぴったりと当てはまったのです。
その内容は、イエスキリストによって生まれつき足の悪い人が立ち上がって、踊り上がりながら、神様を賛美した、そのようなお話でした。イエスキリストによって、私も充実した人生になれる、という答えをいただいたので、その時に心に信じる決心をしました。
その日は 七夕の夜でした。わたしの心は、イエスキリストを信じたという喜びでいっぱいになりました。それから1ヶ月間、礼拝会に出席をするたびに、涙が止めどもなく出てきました。私の教会生活が始まり、
20歳のイースターに洗礼を受けることができました
高校に入学すると、私は、自分を変えたいと思うようになりました。 しかし、努力しても、運動で体を鍛えても、自分を強くすることができず。 変えることができません。 その原因は罪であることが、聖書に記されていました。 ローマ人への手紙7章で、「私は自分のしていることが、わからない。なぜなら、私は 自分の欲する事は行わず、かえって自分の憎む事をしているからである。」ということ ばに続くパウロの告白は、まさにその時の自分を言い当てていました。
教会のクリスマスで、一冊の小さい本をもらいました。 それを読んでいた時、 十字 上のイエス様が「彼らをおゆるしください。 彼らは何をしているのか、わから ずにいるのです」と折られた。その「彼ら」とは、私のことだと示されました。 自分 で自分の罪を何とかしようとしている私のために、イエス様が十字架にかかってくだ さったとわかりました。悔い改めてイエス様を受け入れたとき、罪をゆるされた平安 をいただきました。 今、伝道者として神の恵みを伝えるとき、いつもこの救いの原 点に立ち返り、救われる前のみじめな自分を思い起こします。 教会があったから、 日曜学校に通っている友達に出会わせてくださったから、救われた今の私がいます。
私は大学生の時に自分をはじめ、どうして人間はこんなに不誠実なのか、頼るべき不変のものはないのかと悩みました。そして
人や状況に対していつも不満をもっている自分も嫌で変わりたいと思いました。そのような中で聖書に解決を求め、教会に導かれました。一人で聖書を読んでも意味は理解できませんでした。けれども、礼拝に通い、また個人的に神様の話しを聞くうちに聖書の指し示す、イエス・キリストの事を知りました。そして私は神様から離れてしまった失われた者であることが分かりました。すべての人を救うためにこの世に人となってこられたイエス・キリスト。このお方が人生に必要だと信じて、洗礼を受けました。
洗礼を受けて、わたしは神様に愛されていることが分かり、どのような状況でも失望してしまうことがなくなりました。私を愛して命まで捨てて下さり、よみがえられて今生きておられる主に従う人生は、希望があります。神様の愛に感謝して私の人生を捧げたいと献身し神学校への道が開かれ、あっという間に半年後に卒業を迎えます。神学校生活の中で、様々な体験を通して神様の愛が何度も迫ってきました。だから自分の足りなさをおいても、この神様の愛を伝えたいという思いが増し加わりました。
神学生一同、喜びをもって奉仕をさせていただきます。